モルモンの岩

2011年6月5日のウォルター・カーンによるニューズウィークの記事は「モルモンの岩」と題されていて、社会で非常に著名になったモルモン(末日聖徒イエス・キリスト教会の会員のニックネーム)たちによって演出された「モルモン・モーメント」について議論しています。オズモンズからミット・ロムニーまで話題になっています。カーンはロムニーやジョン・ハンツマンが期待されているほど自分たちの宗教について語らないことにやや不満です。カーンは彼らがもっと自分の宗教についておおっぴらに語れば多くの誤った考えを払拭できるだろうと感じています。 いつものように、その記事はモルモンの信条に関する記載で、教会員を大変奇妙な人だと思わせるような論調とことばの使い方で語っています。その点で、彼が意識せずとも、偏見を助長しています。モルモンがその信条があるために優れた働きをしていることを認めながらも、ロムニーとハンツマンが教義について明らかにするように挑戦していて、モルモンの信条を彼らモルモンでさえもうんざりするような仕方で表現しています。 例を挙げましょう。カーンは、あてつけに「特別な下着、魔法の眼鏡」などの表現の仕方をしています。モルモンは下着として宗教的な概念を象徴するようなものを身につけますが、それはオーソドックスのユダヤ人がチッツジッツというものを身につけるのとまったく同じです。特別な宗教的な衣装というものは地上のほとんどあらゆる宗教に共通したものだと言ってよいでしょう。それらは神聖なもので、神との聖約を表しています。そうならばどうしてモルモンの信仰があえて侮辱されなければならないのでしょうか。「魔法の眼鏡」で表現されているウリムとトミムは聖書の中で多数言及されているものですが、それらはイスラエルの宗教の中でいつも特別な役割を果たしてきました。モーセやアロンがそれを所有されていた時には崇められたものが、なぜ今日は軽蔑されるのでしょうか。 現在、反モルモン的考えが新たなピークを迎えています。だれもがそれを容認しているようです。ほかの宗教でしたら決してそうはしないでしょうに。もう一つの例はブロードウェイのミュージカルで受賞している「モルモン書」ですが、最初から最後まで品位を落とし中傷する要素に満ちています。それでも批評家はそれを賞賛し、反対の声はほとんど聞かれません。これがユダヤ教に関するものでしたら、同じ批評家はナチのドイツの反ユダヤ主義のことを思い出し、激しくその制作を非難するでしょう。 そういう具合に、カーンはモルモンが理解されるように助けてはいません。しかし、彼は大切な点についても触れています。 モルモニズムの教義や実践は一般の人たちにも応用できそれは成功をもたらす。デヴィッド・ニールマンのビジネスへの実践、ステファニー・マイヤーの控えめな特徴、スティーブン/コーヴィーの社会的組織的な概念など。 モルモニズムの教義と実践はモルモンが良い市民になるのを助けている。 カーンは「より広い文化に影響しているのはモルモンの際立った特徴である」と捉えています。モルモンは指導者です。というのは彼らの宗教によって成功しているのであって、彼らは正しい原則を教え人々が自分の自身を治めるようにさせるのです。(これが創始者ジョセフ・スミスの哲学であり、それは天与の賜物である選択の自由に基づいています。) ニューズウィークの「モルモンの岩」という記事を読むには、ここをクリックしてください。 KSLニュースはその記事に対してコメントしています。 一方、福音派のウオレン・コール・スミスはモルモンはその職に相応しくないという記事を書いています。イエス・キリスト教会の広報活動の長であるマイケル・オッターソンはその記事に対してワシントン・ポストに寄稿しています。その記事を読むには、ここをクリックしてください。 その他の資料: 末日聖徒イエス・キリスト教会(誤って友人や他の宗派の人から「モルモン教会」と呼ばれます。)の公式なサイトでモルモンについて学んでください。 モルモン書は聖書に似た聖なる書物です。無料で注文することができます。 地元の教会堂に集ってモルモンとはどのような人たちなのか御自分の目で確認してください。 この記事はゲストの著者による投稿で、この著者はミット・ロムニーモルモンに45の記事を投稿しています。

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世界中のモルモン

「モルモン」も末日聖徒も末日聖徒イエス・キリスト教会の会員も同じ人々を指しています。「モルモン」という呼び名は末日聖徒に対して使われますが、誤用です。というのはこの呼び名はキリスト中心の宗教であるという焦点からずれているからです。今日世界中にLDS教会、末日聖徒ないしは「モルモン」の信条について多くの誤解があります。実際に、末日聖徒イエス・キリスト教会は地球規模の教会です。教会はアメリカ合衆国では4番目に大きいキリスト教の教派でその1千4百万の教会員の半分以上が合衆国の外に住んでいます。 ほとんど世界中のあらゆる国に末日聖徒は住んでいます。彼らの文化的民族的な背景は驚くほど多様です。しかし、これらの人々を結び付けているのはイエス・キリストに関する信仰と主の回復された福音についての証です。世界中の末日聖徒の中から何人かを御紹介します。 ジョーン・ザムディオはペルーの画家で、自分の経験を通して、救い主の魂を感動させるような絵画を描きます。 セサル・アエドはペルーのパントマイムの世界的な役者です。 ミルトン・ケイロツデパイザオはブラジル人の世界的なサッカー選手です。 キョーヨー・イバムバはナイジェリアとアメリカを結ぶテレビリポーターでありまたファッションのコンサルタントです。 モロニ・ビング・トーガンはブラジル人の政治家で犯罪と戦っています。

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モルモンの人道的支援

今やミット・ロムニーがモルモンであること、すなわち末日聖徒イエス・キリスト教会の会員であることが周知の事実になっています。この点が何週間もみんなの注目を集めているからです。多くの人はロムニーが教会に献金していることに疑問を抱いています。この献金は何であり、教会が行っている人道的支援はどのようなものなのでしょうか? 忠実な末日聖徒(「モルモン」)は什分の一を納めるように求められています。これは収入の十分の一を意味します。それに加え、会員は毎月断食し(2食分を続けて食べ物と飲み物を取らないこと)その金額に相当する額かそれ以上を教会の困った人のために献金します。この献金は断食献金と呼ばれます。そこの会衆のビショップの判断で、その地元の会衆の中の経済的に苦しんでいる人々を助ける為にその献金を使います。もし会衆から集まった断食献金の額が地元のニーズを上回っていればその余分な分は教会の本部に送られ、同じ目的のために、より大きな地域の人々のために使われます。 末日聖徒イエス・キリスト教会の会員は人道的支援の基金のためにも献金するように勧められます。この基金は教会が戦争や天災などの犠牲になっている人々を助ける為に使われます。この献金は100%その最終目的のためにだけ使われ、それにかかわる諸経費は教会が負担します。 ミット・ロムニーが納税額を公表したとき末日聖徒イエス・キリスト教会への献金額についてさまざまな憶測が起こりました。教会への献金は内密事項ですので、内訳はわかりません。忠実に什分の一を支払っているという前提からすると、収入の十分の一がその中に含まれているのは確かであると思われます。その残りは教会のさまざまな活動のための献金です。 末日聖徒イエス・キリスト教会の自動支援のプログラムは世界中で最も大きくてしかもよく組織された活動です。末日聖徒イエス・キリスト教会は会員は被災地に真っ先に駆けつける人たちの中に見出され、食べ物、衣類、そのほか緊急時の必需品を携えてやってきます。彼らは被災地の再建のためにも尽くします。人道支援の中心的な原則は教会のほかの福祉活動と同様で、受益者の自立を助けることです。自活できることがその活動を導く原則です。中心的な目標は人々の緊急のニーズを満たすことです。それからできるだけ早く自立できる方向に支援します。 1985年にそのプログラムが発足して以来、185カ国の人々が教会の支援を受けてきました。支援は国や宗教の違いにかかわりなく与えられてきました。モルモンの教義はすべての人々は神の子供で、愛と尊敬の念をもって接するべきであると教えています。多くの人道的奉仕は緊急時(たとえば地震、洪水、戦争、飢饉など)に応えての活動ですが、ほかの活動はもっと長期的で、深い問題から来ていることに対処しています。それらの活動には飲料水の確保や病気に対する対策などがあります。 モルモンの人道的支援のプロジェクト エチオピアでのアドミットの配布 竜巻の後の片付け作業でのLDSのボランティア インドでのモルモンの人道的な目の治療 LDSチャリティー 主には教会員の献金でまかなわれていますが、だれでも末日聖徒イエス・キリスト教会の人道的基金に献金できます。世界中で行われている支援活動の主な5つの活動をあげると新生児心肺蘇生の訓練、飲料水プロジェクト、車椅子の配布、目の治療、はしかのワクチンです。 末日聖徒イエス・キリスト教会は全世界の国々に毎年何百万ドルもの額に匹敵する支援や物資の供給をしていますが、その努力を吹聴することを控えています。それは支援の目的が公に知られることにはないからです。新約聖書にあるように、もし人々からそのことで名声を得るようなことにでもなれば、それで報いを得たことになってしまいます。 「だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるために街道や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。」(マタイ6:2-4) 2007年、配置からの報道関係者がソルトレイク市の教会の本部を訪れました。滞在中に教会がハイチで行ったことをもっと世間に知らせてほしいと要望しました。そうすれば世間の認識が高まり、ほかの人たちがもっとハイチの復興に献金してくれるだろうと期待したからです。前記の救い主からの勧告に加え、教会はマタイ伝にあるもう一つの勧告を引用してその要望に応えました。「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5:16)教会の態度は変わりません。よい業をなした後、もし、広報期間が気づいてそれによって人々が自然なかたちで認識してくれるのであればそれでよいとし、あえて人々の注目を惹くことはしません。

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モルモンの人道的支援、インドでの目の治療

末日聖徒イエス・キリスト教会はしばしば誤ってモルモン教会とも呼ばれますが、世界中の人道的な支援のプログラムを金銭的に援助しています。その一つが目の治療についてのプログラムです。世界中には1億6千1万人を越える目の不自由な人がいます。75%もの全盲の人たちはそれが防げるか治療の可能な人たちです。しかし、不運なことにこれらの目を患っている人たちのかなりの部分が予防や治療の機会に恵まれていません。LDS教会の目の治療に関するプログラムの目的は目の改善に必要な必須の治療を貧しい人々に提供することで、専門的な訓練、医療関係の装置や備品、眼科医を支える組織を整えることなどによってそれを実現します。 教会は眼科医がその技術と時間を提供してくれることで、それを頼りに支援をすることができます。このようなプログラムを通して、2003年以来18万人を越える人々が助けられてきました。 2009年末日聖徒イエス・キリスト教会は23カ国におけるプロジェクトで支援活動を行いました。その内訳はコンゴ共和国、ドミニカ共和国、エクアドル、エジプト、ホンジュラス、インド、インドネシア、ヨルダン、レバノン、リビア、マレーシア、メキシコ、モルドバ、モンゴリア、ミャンマー、ナイジェリア、パナマ、パラグアイ、フィリピン、ウクライナ、ウルグアイ、ベネズエラ、ベトナムです。 インドのイチョダに住むシヴダッドは教会のプログラムの恩恵を受けた一人です。黒メガネを探している間無料の目の検査を受けました。しかしお金がなく特別な治療を受けることはできませんでした。検査により緑内障であることがわかりました。そのクリニックの従業員は彼を別のところにあるセンターを紹介し、そこの専門医がレーザー治療をLVプラサド眼科病院で受けるように勧めました。 もしそれより1年前に同じような診断を受けたら治療を受けられう望みはなかったでしょう。訓練を受けたばかりのベンカララワナはLDSチャリティーによって支援されているコミュニティークリニックのプログラムで新しい技術を学んでいたのです。 シヴダッドは必要な治療を受けられました。そして近所のほかの家族のところに行って彼らも目の検査を受けられるように勧めました。 多くの専門家たちは基本的な訓練を授けることが地方ではそれほどの成果を得られないだろうと馬鹿にしていましたが、このプロジェクトは合衆国で訓練を受けた眼科医のグラパリ・N・ラオ博士の指示のもとで大いに発展しました。ラオ博士はインドのアンドラ・プラデッシュの出身です。彼と奥さんは20年間の間一生懸命働き田舎の眼科クリニックを地元の人を雇っていくつも開設しました。 眼科センターから車で1時間以内にあるこれらの小さなクリニックに地域の人たちの参加を促すことによって、営業経費を低く抑えることができます。ベンカタラワナのような人々は訓練を受けて初期の治療を行うことができます。もし手術が必要であれば患者はセンターに送られます。 ラオ博士の病院は2006年にLDSチャリティーとの協力体制をはじめました。彼は20の施設を作ることを計画していましたが、2012年の末までには100の施設が設立され運営されている予定です。LDSチャリティーが装置を提供し、100のうちの40の施設で技術者を訓練してきました。 LDSチャリティーがラオ博士を助けてきたのは彼がとりわけ貧しい人に目を向けているからです。同じ目標を持っているので協力し多くの人々に治療の機会を提供しています。 ラオ博士の病院は3つの目標を掲げています。質、近くにある、経費が安いの3つです。彼らが希望しているのは同じような目標を掲げる組織が増えることです。 アイキー・ファーガソンは末日聖徒イエス・キリスト教会の短期間で専門分野の技術などを使って宣教師の働きをするように召されていますが、多くの人道的支援の経験を持ち、アジア、アフリカ、東欧で奉仕してきました。アイキーのようなボランティアによってこのような業が支えられています。 LDS人道的支援のプロジェクトの目指すことの一つはプロジェクトが地元の人たちだけで運営できるようになることです。初期段階において投資を行った後、地域のクリニックは通常医師の勧めるメガネを売ることなどから収入を得て独立できるはずです。採算が合わないときは寄付を募ります。地元の支援を受けることが必須です。通常地元の慈善的な団体が創業資金を提供します。 ラオ博士が3年間で果たしたことは驚くべきものです。LDSチャリティーが支援したクリニックで、9万1500件の無料の検査が行われ、4万1430のメガネが配布され、9500人の患者がセンターに送られました。このことは訓練を受けた技師が基本的なニーズの大部分の事を行い、残りの部分を専門家が行うというチームプレーができたことを示しています。

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家族の目的と可能性

「家族-世界への宣言」 末日聖徒イエス・キリスト教会大管長会ならびに十二使徒評議会 わたしたち、末日聖徒イエス・キリスト教会の大管長会と十二使徒評議会は、男女の間の結婚は神によって定められたものであり、家族は神の子供たちの永遠の行く末に対する創造主の計画の中心を成すものであることを、厳粛に宣言します。 すべての人は、男性も女性も、神の形に創造されています。人は皆、天の両親から愛されている霊の息子、娘です。したがって、人は皆、神の属性と神聖な行く末とを受け継いでいます。そして性別は、人の前世、現世および永遠の状態と目的にとって必須の特性なのです。 前世で、霊の息子、娘たちは神を知っていて、永遠の御父として神を礼拝し、神の計画を受け入れました。その計画によって、神の子供たちは肉体を得ることができ、また、完成に向かって進歩して、最終的に永遠の命を受け継ぐ者としての神聖な行く末を実現するために、地上での経験を得られるようになったのです。神の幸福の計画は、家族関係が墓を超えて続くことを可能にしました。聖なる神殿において得られる神聖な儀式と聖約は、わたしたちが個人として神のみもとに帰り、また家族として永遠に一つとなることを可能にするのです。 前世で、霊の息子、娘たちは神を知っていて、永遠の御父として神を礼拝し、神の計画を受け入れました。その計画によって、神の子供たちは肉体を得ることができ、また、完成に向かって進歩して、最終的に永遠の命を受け継ぐ者としての神聖な行く末を実現するために、地上での経験を得られるようになったのです。神の幸福の計画は、家族関係が墓を超えて続くことを可能にしました。聖なる神殿において得られる神聖な儀式と聖約は、わたしたちが個人として神のみもとに帰り、また家族として永遠に一つとなることを可能にするのです。 神がアダムとエバに授けられた最初の戒めは、彼らが夫婦として親になる能力を持つことに関連したものでした。 わたしたちは宣言します。すなわち、 増えよ、地に満ちよ、という神の子供たちに対する神の戒めは今なお有効です。またわたしたちは宣言します。生殖の神聖な力は、法律に基づいて結婚した夫婦である男女の間においてのみ用いるべきです。 わたしたちは宣言します。この世に命をもたらす手段は、神によって定められたものです。わたしたちは断言します。命は神聖であり、神の永遠の計画の中で重要なものです。 夫婦は、互いに愛と関心を示し合うとともに、子供たちに対しても愛と関心を示すという厳粛な責任を負っています。「子供たちは神から賜った嗣業であり」(詩篇127:3)とあります。両親には、愛と義をもって子供たちを育て、物質的にも霊的にも必要なものを与え、また互いに愛し合い仕え合い、神の戒めを守り、どこにいても法律を守る市民となるように教えるという神聖な義務があります。夫と妻、すなわち父親と母親は、これらの責務の遂行について、将来神の御前で報告することになります。 家族は神によって定められたものです。男女の間の結婚は、神の永遠の計画に不可欠なものです。子供たちは結婚のきずなの中で生を受け、結婚の誓いを完全な誠意をもって尊ぶ父親と母親により育てられる権利を有しています。家庭生活における幸福は、主イエス・キリストの教えに基づいた生活を送るときに達成されるに違いありません。実りある結婚と家庭は、信仰と祈り、悔い改め、赦し、尊敬、愛、思いやり、労働、健全な娯楽活動の原則にのっとって確立され、 維持されます。神の計画により、父親は愛と義をもって自分の家族を管理しなければなりません。また、生活必需品を提供し、家族を守るという責任を負っています。また母親には、子供を養い育てるという主要な責任があります。これらの神聖な責任において、父親と母親は対等のパートナーとして互いに助け合うという義務を負っています。心身の障害や死別、そのほか様々な状況で、個々に修正を加えなければならないことがあるかもしれません。また、必要なときに、親族が援助しなければなりません。 わたしたちは警告します。貞節の律法を犯す人々、伴侶や子供を虐待する人々、家族の責任を果たさない人々は、いつの日か、神の御前に立って報告する ことになります。またわたしたちは警告します。家庭の崩壊は、個人や地域社会、国家に、古今の預言者たちが預言した災いをもたらすことでしょう。 わたしたちは、全地の責任ある市民と政府の行政官の方々に、社会の基本単位である家族を維持し、強めるために、これらの定められた事柄を推し進めてくださるよう呼びかけるものであります。 この宣言は、1995年9月23日、ユタ州ソルトレーク・シティーで開催された中央扶助協会集会において、ゴードン・B・ヒンクレー大管長により、メッセージの一部として読み上げられたものです。

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モルモンの信条:永遠の家族

末日聖徒イエス・キリスト教会(会員は時々モルモンと呼ばれる)は一般の人が心の深くでは意識していても普段は認めていない大切な真理を教えることにおいてユニークな存在です。愛する者が亡くなる時、彼らは「お父さんとお母さんはまた一緒になる。」「私は亡くなる時にまた息子に会える。彼は天国で私を待っている。」と言います。私たちが悲しみに沈んでいるとき、神が私たちの心に家族は永遠のものだと約束して慰めてくださいます。   福音は限りなく論理的で、愛に満ち、公正なものです。神が創造を行われたとき最初に行われたことのひとつはアダムに妻を与えることでした。そして家族を創るように命じられました。このことは結婚と子育ての永遠の意味を強調しています。神は結婚が神聖なものであると強調し、家族への愛が力強く私たちの心に宿るようにされました。神は私たちに地上で交わす結婚の誓約は永遠に続けることができると教えられました。 「わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう。」(マタイ16:19) 私たちは天では想像以上に幸せであると教えられています。誰がもし家族が私たちと一緒でなければ完全に幸せだと感じられるでしょうか?きれいな景色を見たとき家族にも見せたいと思うのが自然ではないでしょうか?何かよいことが起これば家族と一緒にそれを分かち合いたいと思います。だとしたら、愛に満ちた神が私たちが家族と離れて、自分ひとりで孤独に永遠を過ごすことを指示なさるでしょうか。子供たちを私たちから連れ去り、配偶者を私たちの生活から取り除かれるようなことを神がなさるでしょうか。 それとも神は私たちが全力を尽くして自分の義務を果たすことによって家族と永遠にいられるようになさるでしょうか。私たちは神の戒めを守ろうと思うほど家族を愛し、その結果として神から両親や伴侶や子供たちと一生に永遠に住めるという賜物を得たいと思うでしょうか。 モルモンは親切で愛に満ちた神は私たちが家族と永遠に住める機会を与えてくださると信じています。そしてこのような知識を私たちがもっとも必要としているときに思い出せるようにしてくださったことを信じています。 モルモンは家族が神の創造の中で中心的な存在であり、家族のことを最優先にしなければなりません。その準備は子供のころに始まります。両親を敬い、兄弟姉妹や祖父母やその他の親戚の人に親切にするなどのことを学ぶことです。家族の一員であることで社交のスキル、利己心をなくすことや、キリストのような行動を学びます。 モルモンの子供たちは自分たちの体が神殿のようなものであり、神によってご自分の姿に似せて創造されたもので、威厳と尊敬の念を持って扱わなければなりません。彼らは知恵の言葉といわれる健康に関する標準に従い健康的な食生活をすることを学びます。これにはアルコール、タバコ、コーヒー、茶、違法の薬物などを避けることが含まれます。また、あらゆる穀類、果物、野菜などをとりますが、これに関する啓示が与えられた当時は風変わりな食生活だと思われていましたが、現在の進んだ医学からすると賢明な選択だと考えられます。この標準に従うことで体や家族についての教えに備えができます。 もっと年令が進むと、子供たちは自分の体を不道徳な方法で扱わないようにすべきことを学びます。神が与えてくださった体を尊ぶように慎み深い服装をすることを学びます。服装に対する標準は男女の両方に当てはまり、背中、おなか、ひざ、肩などを覆い、胸をあらわにしたり、体の線が現れたり、極端なデザインにならないように注意することです。 (モルモンの服装に関する標準について) 十代の青少年は体を尊重するということは性的な関係を結婚するまで持たないということを教えられます。そうすることで将来の伴侶に対し、また結婚の誓約を尊ぶことができます。性的に清い状態を保つために、最低16才までは一対一のデートはしないように勧められています。そして成人するまでぜんぜんデートしないこともまったくふさわしいことと考えられています。また、十代のときはグループでデートし、またいろいろな人とデートし、特定の個人との深い関係は奨励されません。デートが適切なものであり、家族の活動に含めるようにすることで高い道徳的な基準を満たしやすくなります。 (モルモンのデートについて) 「若人の強さのために」というパンフレットの中に十代の青少年が永遠の結婚に備えるための教えが書かれています。モルモンの目指すのはいろいろな障害を越えて永遠に続く結婚です。パンフレットの内容は、 「夫と妻の肉体的な親しい関係は美しく神聖なものです。それは神によって定められた関係で、子供を生み、夫婦の間の愛の表現です。神が命じられているのはこのような性的な関係は結婚のためにのみ使われるべきであるということです。」 結婚の前のふさわしい男女関係について説明されています。もし神のそのような指示に従うならば神の神殿に入り永遠に続く結婚関係に入ることができます。神殿はそのような結婚を執り行う唯一の場所です。彼らはそのように神の指示に従い、伴侶のために清い生活をし、神が彼らにくださった肉体という賜物を敬います。モルモンは結婚は男女の間で行うべきだと教えています。今日においては、神は結婚が一人の男性に対して一人の女性だけであるべきだと定められています。一夫多妻制は、神が時々特定の目的のために命ずることがありますが、100年以上の間そのような戒めは与えれていません。 モルモンは結婚と親であることは神聖なものであるとみなしています。「『家族―世界への宣言』」には次のような説明があります。 「家族は神によって定められたものです。男女の間の結婚は,神の永遠の計画に不可欠なものです。子供たちは結婚のきずなの中で生を受け,結婚の誓いを完全な誠意をもって尊ぶ父親と母親により育てられる権利を有しています。家庭生活における幸福は,主イエス・キリストの教えに基づいた生活を送るときに達成されるに違いありません。実りある結婚と家庭は,信仰と祈り,悔い改め,赦し,尊敬,愛,思いやり,労働,健全な娯楽活動の原則にのっとって確立され,維持されます。神の計画により,父親は愛と義をもって自分の家族を管理しなければなりません。また,生活必需品を提供し,家族を守るという責任を負っています。また母親には,子供を養い育てるという主要な責任があります。これらの神聖な責任において,父親と母親は対等のパートナーとして互いに助け合うという義務を負っています。心身の障害や死別,そのほか様々な状況で,個々に修正を加えなければならないことがあるかもしれません。また,必要なときに,親族が援助しなければなりません。」 モルモンは親の責任は結婚の関係の中で遂行されるべきであると信じています。しかし、モルモンは次のことも教えています。 「夫婦が肉体的に健康なら子供をこの世に向かえる助けをし、彼らを育てるという特権と責任があります。何人の子供を育てるのかとか、いつ子供を生むのかということは個人的なことであり、夫婦の間で決めることです。」(産児制限、LDS.org、Study by Topicを参照)モルモンは母親の健康、必要最低限の生活を保障できる家族の経済状況を考慮するように教えられています。産児制限をするかどうかは結婚した夫婦に任されています。しかし、選択的な堕胎は産児制限の選択肢としては考えられていません。 結婚には私たちが自分たちの可能な限り霊的に成長するための大切な要素が含まれています。それによって利己心を捨て、互いの目標を達成する助けとなり、神と再び住むために備える助けになります。 その他の資料: 家族がどうしてそのように神聖なものなのかについてのモルモンの信条を末日聖徒イエス・キリスト教会(誤って友人やその他の宗派の人から「モルモン教会」と呼ばれることがあります)の公式サイトでご覧ください。

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モルモンの信条:背教、改革、回復

プロテスタントの改革はキリスト教が本来のものから逸れてしまい、教義が曲げられてしまったという認識から始まります。多くの偉大な男女が犠牲を払い、時には命を犠牲にして歪められてしまった教義を正そうとしました。 しかし、背教は彼らの時代に始まったのではありません。それはキリストの十二使徒がなくなる前からです。聖書を通じて、何度となく誤った教義が教会の中に忍び込んできてその指導者が改めなければなりませんでした。イエスの死後、十二使徒は懸命にそれをくい止めようとしましたが、しばしば自分たちのやろうとしていることが妨げられました。新しいクリスチャンたちは正しい教義を推測しました。何が正しいかわからなかったからですが、古い教えを新しい教えに持ち込んでみる人たちもいました。ある時点で、テモテが言っているように、アジア全体のクリスチャンが背教してしまいました。  結局十二使徒は亡くなります。今や、問題が起こっても人々は何を信じていいのかわかりませんでした。権威を持って答えてくれる人がいなかったからです。預言者がいませんでしたから、権威を持って神からの答えを受ける者がいませんでした。その結果、人々は聖書を研究し、神が彼らに知ってほしいことは何なのかを知るために全力を尽くしました。残念なことには、聖書をいろいろと別なように解釈する結果になってしまい、答えをめぐって食い違いが出てきてしまいました。 二ケーアのような宗教会議が開かれ、教義を投票で決め諸教会が統一されるように願うという方向に進みました。大多数の考えから外れているものたちは破門になりました。 プロテスタントの改革は宗教にたくさんの変化をもたらしましたが、それぞれの指導者は自分たちが預言者ではなく聖書だけが頼りの綱でした。再び長年にわたってすべての改革者たちは必ずしも聖書の解釈に一致しているわけではなく、いつしか何千もの教派に分かれてしまいます。プロテスタントの中でさえも永遠に大事だと思われるような事柄、たとえば幼児のバプテスマであるとか結婚関係とかいうことに見解が分かれていきました。 明らかに神がその子供たちに聖書の意味していることがいったい何で、それをどのように今日的な状況の中で応用したらよいのかについてはっきりさせる必要がありました。これまでのどの神権時代でも、背教が起こり預言者が地上から取り去られると、神は後にやがて新しい預言者を召しました。神は預言者にまず明らかにしないでは何もなさらないと約束されました。このことはそれぞれの神権時代に預言者がいるべきであることを意味しています。聖書にはもう預言者がいなくなるとか、神の子供たちに神がそれ以上話しかける必要を感じておられないとか書いてありません。 真理の回復に必要なさまざまな状況が整いました。改革の回復は違います。改革の時期には、指導者はその当時の宗教的信条に対抗し、それを変えようとしました。回復に関しては、物事が元の完全な形になり、イエスが完全な真理を回復したのと同じです。主は単に変更を加えたのではありませんでした。このような業は預言者だけができることです。 これまでキリスト教はずっと続いていました。イエスや十二使徒が亡くなってから、勇敢な人々が聖書と神の教えを保存しようと全力を尽くして格闘しました。彼らの努力のおかげでキリスト教は部分的に信条が抹消されたり他の宗教により変化を受けたことはあれ、この世から完全に抹消されることがありませんでした。 末日聖徒イエス・キリスト教会の会員であるモルモンは初期のプロテスタントの改革者の払った偉大な犠牲を尊んでいます。彼らの努力があったればこそ今の私たちの宗教が誕生できたからです。聖書が英語に翻訳され一介の労働者の少年でもそれを読み理解できるようになりました。合衆国はすべての人に宗教の自由を保障しました。たとえその自由は完全なものでなかったとしても、また常にそれが保障されているわけではありませんでしたが、連邦政府のレベルではそれが法的に必須のものとなり、市民戦争後はあらゆるレベルで法の適応が実施されるようになりました。 1920年、十代のジョセフ・スミスは背教によって生じた複雑な状況に直面していました。その地方にはたくさんの種類のプロテスタント教会があり、それらに集ってみてどの教会に入るべきか知ろうとしていました。しかし、どの教会も自分たちが真理を教えていると主張し、それぞれが違った教えを教えていたので彼は混乱していました。全部が正しいわけはありませんでした。どの教義であれ、どの教会がその点について正しいということを知ることができるのでしょうか? ジョセフ・スミスは聖書を読み始めました。新約聖書のヤコブ書に来たとき、その中のある聖句に目が留まりました。ヤコブ1:5には「あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。」と書いてあります。彼はヤコブが必要な答えを与えてくれたとすぐに悟りました。人は誤っても、神は真理をご存知です。もし真理を知る必要があれば、ご存知なのは神だけです。彼は、小さな家に大きな家族で住んでいました。ですから、近くの森に入っていって静かなところを見つけ祈りました。自分の疑問があまりにも重要だったので声を出して祈りたかったのです。 サタンがその祈りを妨害しようとしましたが、ジョセフ・スミスはすぐに頭上に光を見、サタンから逃れました。神とイエス・キリストがジョセフに現れたのです。神は御子を紹介し、イエスはジョセフにどの教会にも入らないように、それはそのどれも完全に正しくはないと説明なさいました。 ジョセフが大人になってまもなく、神は天使モロナイを送り、指導して彼が最後の神権時代の預言者になるように助けるようにさせました。イエス・キリストの再降臨に備える重要な神権時代には確かに預言者が必要でした。周りを見渡せばわかるように、世界は必死になって導きを求めていて、最も良識的な教会同士でも何が真理かについて一致することができません。今日の世界は非常に違っていて、新たな霊的な導きを必要としています。神様はアダムに一度語りかけた後それでおしまいで、人類に必要なものはすべてあるとは言われませんでした。 神は預言者につぐ預言者を地上に送られ、私たちの霊的な知識を少しずつ増やされてきました。それに加え、神様はそれぞれの時代に特有なニーズに合わせて支持を与えられます。たとえば、ノアには箱舟を作る指示を与え、モーゼに与えられたものとははっきり異なりました。モーセは地からマナを集めるように民に命ずるという指示を得ました。その後の預言者はそれと同じ導きを受けませんでした。それぞれの神権時代、それぞれの世代にはそのときの人々が事態を乗り切っていくための特別な指示が必要でした。時には自分たちの誤りで預言者を失ってしまう時期もありましたが、それはいつも一時的なことでした。 今日これまで以上に世の中は神が彼らの複雑な状況にある特別なニーズについて指示を与えられることを必要としています。そしてこの私たちの惑星における最後の日を安全に迎えられるように導きを必要としています。 ジョセフ・スミスは教会の最初の預言者でした。モルモンは彼を崇拝しません。かれは一人の預言者で、神ではありません。ですから、聖書の中のノアやモーセと同じようにみなされています。彼が亡くなると、新たな預言者が召されました。そのとき以来教会には預言者がいなくなって導きを失ったときはありません。今日の預言者はトーマス・S・モンソンです。  

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モルモンの信条:慈悲と行い

創世のはじめから神は人が従うための戒めを与えられました。預言者は神とイエス・キリストに従いたいと思う人々にこれらの戒めの重要性を強調しました。 しかし、戒めは神の私たちに対する計画の一部分でしかありません。神はいつも私たちがご自分の元に戻ってくるように望んでおられますが、正義と哀れみがこのことが起こるためにはバランスの取れたものにならなければなりません。  慈悲なしで御許に戻るには罪のない生活をしなければなりません。そのようなことはイエス・キリスト以外には不可能です。キリストがそのようにできたのは神がその父親で、特別な方だったからです。キリスト以外の私たち人類は、失敗や誤った選択がつきものです。もし神のもとに戻ることができなければ、神様が私たちを地上に送ることには意味がなくなってしまいます。そうであれば親切でも公正でもない神を想定しなければなりませんが、事実はまったくその逆です。 この理由で、神は慈悲によってバランスをとってくださいました。慈悲は従順である必要性を完全に取り除きはしませんが、条件を緩め、悔い改めによって神のもとにいつか戻れるようにしてくださいました。この慈悲はイエス・キリストが自由意志によって犠牲を払ってくださったおかげで可能になりました。主は地上に来られ、ここで成人され、私たちの罪を贖ってくださいました。私たちを贖うためには肉体的な弱さを受けながら罪のない生涯を送る必要がありました。ですからマリヤと父なる神の子として生まれる必要がありました。マリヤから死すべき体を受け継ぎ、苦しみ死ぬことができました。神からの受け継ぎは死を克服し、完全な生涯を送る力を与えてくれました。 主の生涯の業が終わりに近づいたとき、ゲツセマネの園で私たちの罪を一身に背負われました。この経験はこの上なく痛みを伴うもので、地上にこれまで生き、これから生きるであろうあらゆる人のために個別で個人的な贈り物として行われたものです。主は私たち一人一人の罪を一つ一つ漏らすことなく償われたのです。想像を絶するような苦しみが伴い全身の毛穴から汗のように血を流すほどでした。 それから主は十字架上でなくなります。それから三日して蘇り、死を克服したのです。これらの一連の行為によってこの世に慈悲と救いがもたらされました。 モルモンとも呼ばれることのある末日聖徒イエス・キリスト教会の会員は神の恵みを信じています。しかし、他の教会の一部の人たちと違った意味でその恵みを捉えています。たいていの場合、その捉え方のゆえに、人々はモルモンは恵みについて信じていないのではないかと誤解するほどです。 モルモンは神の恵みと救い主の贖いにより、すべての人は復活し永遠に生きると信じています。また、それは私たちが罪を悔い改め神と一致した生活をする権利を私たちにもたらしますが、それを選ぶかどうかは私たちの選択の自由にかかっています。モルモンはバプテスマを受けるとき、自分自身にキリストの名前を引き受け、主を自分たちの救い主として受け入れます。しかし、彼らは真の救いは単に死ぬことなく永続する以上のことだと信じています。永遠に神とともに生きることです。そのためにはバプテスマが最初のステップであり、終わりではありません。 教会が聖書とともに公式に聖典と認めているモルモン書には恵みについて次のような記述があります。 「さて、わたしの愛する同胞よ、神の御心と和解しなさい。悪魔の意志と肉の思いに自らを従わせてはならない。また、神と和解した後にあなたがたが救われるのは、ただ神の恵みによること、また神の恵みを通じてであることを覚えておきなさい。」(2ニーファイ10:24) この意味するところは、私たちは独力では救われないと言うことです。もし、イエス・キリストが地上に来られて私たちの罪を贖ってくれなければ私たちはとこしえに神のみ前から遠ざけられることになるのです。どのようなことをしても独力で死と罪を克服することはできません。 パウロはこのことについてローマ10:9-10で述べています。 「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。」 この聖句だけをとって考えると、イエス・キリストを救い主として受け入れることが条件のすべてで、一度そうすれば生涯の残りをやりたい放題のことをしても救われると言う意味に取れそうです。もちろん、恵みと救いについての完全な教えを知ろうと思うならば聖書の全体を読まなければなりません。教えの解釈は聖書全体の文脈の中で捉えなければならず、孤立した聖句のいくつかだけに基づいて解釈すべきではありません。 モルモン書には次のようにあります。「わたしたちは子孫と同胞に、キリストを信じ、神と和解するように説き勧めるために、熱心に記録し続けようと努めている。それは、わたしたちが最善を尽くした後、神の恵みによって救われることを知っているからである。」(2ニーファイ25:23を参照) この聖文が意味するところは自分のできる限りを尽くしたのち救われるという部分に注目するあまりに、恵みに関する部分を無視して、モルモンは自分の努力によって救われると信じているのだと結論づけてしまう人もいます。明らかに、この聖句の全体を読むと、その結論は正しくないことがわかります。行いのない信仰は死んだものです。それは聖書の告げるところですが、その反対も真実です。 恵みも行いも神の哀れみに満ちた福音が機能するために必要なものです。聖書の中から何箇所か引用し、神の御許に戻るためにしなければならないポイントについて考えてみましょう。 最初に、聖書は信仰を持ちイエス・キリストを救い主として受け入れるべきであると述べています。ローマ人への手紙の前述の箇所にこのことが含まれています。これらのことは両方とも行いであり、ですから恵みだけを信ずるというクリスチャンも実は行いも信じているのです。ですから、要するに問題は行いが伴わなければならないかどうかではなく、どの程度の行いが要求されるかです。キリストに対する信仰を持つということは確かに行いです。 しかし、聖書の中で概観されている行いだけが救われるために必要な条件ではありません。使徒行伝2:38は「すると、ペテロが答えた、『悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あたながたは聖霊の賜物を受けるであろう。』」とあります。 それから、悔い改めが救いに必要な二番目の行いです。 マルコ16:16はもう一つの救いに必要な行いについて述べています。「信じてバプテスマを受けるものは救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。」バプテスマは救われるために必要です。 山上の垂訓に目を向けますと、戒めに従うのは必須のことであるとイエス・キリストが自ら教えておられることに気づきます。主よ、主よと私に呼びかけるものがすべて天国に入るのではないと、ただ天にいらっしゃる御父の御心を行うものだけが天国に入れるとおっしゃっています。(マタイ7:21参照)この聖句が明らかにしているように、言葉だけでは十分ではありません。実際に戒めを守ることを行いで示さなければなりません。このような教えは聖書全体で何度も繰り返されています。 エペソ2:8-9は教えています。「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。」この聖句が信仰だけで十分という立場の教義を正当化しているとみなされていますが、しかしこの教えは自分勝手に生活してもよいといっているのではありません。ここでのポイントは、自分の努力だけでは不十分でイエス・キリストの働きが必須であることです。イエスが私たちの罪のために贖いをなさらなかったら、どれほど行いによって努力しても私たちは救われないのです。然し、依然としてイエスは救いのためにはわたしたちが戒めを守らなければならないとおっしゃいました。 どのようにすればこれらの聖句が戒めに従うことの必要性を強調している聖句と一見相矛盾しているように思われるという問題を解決できるでしょうか? 私たちの正しい決断は神を愛していることを表すことになりますが、それは自分たちの利己的な願いよりも神の教えを喜んで優先するということです。私たちの行いは自分たちの選択の結果です。たとえ千の良い行いをしても、それが利己的な理由でこの世の報酬のために行うのであれば、神に対する信仰を表しているとはいえません。しかし、これらの行為が純粋に神への愛から来ていれば、それは私たちの信仰の表れであるといえます。 もしイエス・キリストを救い主であると言っておきながら、強盗をし、殺人をするようではその人はぜんぜん改宗していない人です。行いが自分が言葉で述べている信仰と矛盾しているのです。だれも完全ではありませんが、常に努力して自分の生活と心がイエス・キリストの教えや戒めと一致したものであるように心がける人は信仰を実際に表していることになります。 この点を理解すると、信仰と行いについての問題は論争の的になるようなことではまったくないことがわかります。イエス・キリストの賜物である贖いは買うことも稼ぐこともできないものです。しかし、救いすなわち神と共に住むという特権はその人の生活の正しさにかかわっています。信仰と行いが私たちの心の中で完全に一体となっていることが神がわたしたちが持てるように望んでいらっしゃるすべてのものを得るために必要です。

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LDS教会のボランティア、竜巻の復興作業を支援する

2012年2月29日から3月3日、アメリカの南部から中西部にかけて破壊的な暴風が襲いました。合衆国の12の州で(ネブラスカ、カンザス、ミズーリ、イリノイ、ケンタッキー、インディアナ、オハイオ、ウエストバージニア、ノースカロライナ、テネシー、アラバマ、ジョージア)100の竜巻がこの4日間に起こりました。その結果何十人もの死者が出、何千人もの人々が家を失い、何百万ドルもの被害が出ました。 末日聖徒イエス・キリスト教会(しばしば「モルモン」という誤った呼び名が使われる)の会員はすぐさま駆けつけました。3月4日の日曜日に、インディアナの末日聖徒はチェーンソーやエルボーグリースを使って最善を尽くして瓦礫の整理をしました。 嵐は3月としては記録的な大きな竜巻を伴っていましたが、それだけでなく洪水も複数の州を襲っていました。 末日聖徒のボランティアはすべての地域で献金し、被災地の混乱を片付ける作業をするグループを組織しました。いつものように、地元の教会の指導者が地域社会の指導者と密接に協力してまたユタ州のソールトレイク市にある教会の本部の職員とも連絡を取り合いながらニーズを把握し効率のよい救援活動を進めました。末日聖徒イエス・キリスト教会は巨大な全世界を網羅する人道的支援のプログラムを持っていて、災害が起こったら直ちに出動できるように絶えず支援物資を蓄えています。この場合では、衛生キット、発電機、掃除キット、その他の基本的な支援物資を被災した地域のために提供できました。末日聖徒イエス・キリスト教会からの援助は教会員だけでなく必要としているあらゆる人々のために備えられています。 ニューアルバニー・インディアナ・ステークの管轄している地域は特にひどい被災地となりましたが、教会がアクションを起こした典型的なケースです。この地域の教会員は3月の3日と4日を近所の人たちやほかの教会員を助ける為に働きました。指導者が支援を募ったところ、500人の教会員がそれに応えました。清掃作業が日曜日までに及んだので、短い日曜日の礼拝行事を済ませてから仕事にかかりました。 本当のクリスチャンの奉仕を通して多くの末日聖徒は助けた人々と友達になりました。

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ミット・ロムニーとの思い出を振り返って

わたしがミット・ロムニーに会ったのは1972年9月の最初の日曜日で、わたしがマサチューセッツ州ケンブリッジのロングフェローパークにある末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン)の礼拝堂の中に入って行った時でした。わたしはハーバード大学法学大学院に入学したばかりでした。ミットは人込みの中でもひときわ目立ち、背が高く、ハンサムで、堂々としていてとても親しみがありました。彼はわたしに自己紹介して、わたしはその名前を思い出し彼の父親でありマサチューセッツ州知事で現共和党の大統領候補のジョージ・ロムニーに似ていました。ミットがなぜわたしがケンブリッジにいるか分かったときに、彼はハーバード大学法学大学院の一年目を終えたばかりでした。またわたしは彼が共同事業/法律の4年制プログラムをしていることを知りました。彼はハーバード大学ビジネススクールの1年目を始めたばかりでした。わたしたちは1975年の同じ卒業期生の中にいます。   数分話しした後に、ミットはこんなことを言いました。「なあ、もし君が家に来たら、法科大学院でどのように勉強したらいいか助言するよ。」彼は彼が学んだ勉強方法がいくつかあってそれがわたしを助けになるかもしれないと説明しました。わたしは驚きまたおだてられましたが、しかし喜んで提案を受け入れました。彼はすぐに会う予定をつくりました。それは次の水曜日の夜だったと思います。   彼はもう一人1年のクラスメートをその勉強会に参加できるように招待しました。3人はとてもすてきなベルモントの街にある、とても素敵な家にある、とても素敵な地下室で会ったのです。 彼の妻アンは同じように親しみがあり、私たちを歓迎してくれました。ミットはその夜時間をかけてわたしたちが法学の鍵を理解できるようにコースのアウトラインをどのように作るか見せてくれました。彼はこれがどのように彼が試験でうまくやることができるよう助けたかや成功するためのその他の提案をしてくれました。わたしは後に彼が法科大学院でとても良くやっていた事を知りました。彼の個人指導は非常に助けになりましたが、彼が法科大学院でしたように自分もできるだろうかと思いました。わたしはかつてミット・ロムニーよりも頭のいい人に出会ったことがあるかどうかわかりません。

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Mitt Romney Mormon